◆ルカの福音書24章1節~12節
24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。
24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。
24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。
24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
24:11 この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
24:12 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。
◆ルカの福音書24章33節~53節
24:33 二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、
24:34 「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。
24:35 そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。
24:36 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
24:37 彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。
24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」
24:40 こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。
24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。
24:44 そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」
24:45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
24:48 あなたがたは、これらのことの証人となります。
24:49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
24:50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。
24:52 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。
Ⅰ.ここにはおられません。よみがえられたのです。
御使いから、主イエスの復活を告げるメッセージを受け取ったのは、墓を訪れた女の弟子たちでした。しかし、十一人の弟子たちは、彼女たちの話しを信じることができなかったとあります。弟子たちが復活の事実を認めたのは、主イエスが、彼らの前にご自身のすがたを現わされた時でした。救い主の復活は、弟子たちの人生を、また人類の歴史を大きく変えることになります。
「十字架にかけられた主イエスはよみがえられ、今、生きておられる。」と大胆に証しした弟子たちの姿が使徒の働きに記されています。その時から2000年以上たった今も、神の国のメッセージは変わりません。その同じメッセージによって、私たちは救われ、永遠の希望を与えられ、今、神の国に生かされています。
こころに、主イエスを迎え入れる時から、私たちの人生は大きく変えられます。主イエスが、私たちとともに生きてくださるからです。主は、私たちに、日々の生活のすべての場面に、ご自身を迎え入れてほしいと願っておられます。主は私たちの思いの内に、祈りの中に、家庭の中に、仕事の中に、日々の生活のすべての場面に関心を向け、私たちとともに生きたいと願っておられるのです。
私たちが、主イエスとともに歩み続けるときに、主はご自身が生きておられることを私たちに証ししてくださいます。
Ⅱ.平安があなたがたにあるように
主イエスは、家の扉を閉めて隠れていた弟子たちの前に現れ、「平安があなたがたにあるように」と語りかけられました。希望を失い、恐れに満たされ、途方に暮れていた弟子たちのこころが、一瞬にして、平安に満たされたのです。
私たちだれもが、平安(安心)を求めています。しかし、どんなに成功したとしても、繁栄を手に入れたとしても、私たちのたましいを安心させることはできません。私たちのたましいは、物質的な成功や繁栄が、やがて消えてしまうことを知っています。人のこころの奥深くに不安があるのは、自分を造り、いのちを与えてくださった天の父から離れて生きているからです。造り主である天の父が私たち愛し、私たちに目を向け、私たちとともにいてくださる、それにまさる平安は、どこにも見つけることはできません。
イエス・キリストの復活は、十字架の死を通して与えられる、罪の赦し、天の父との和解、永遠のいのち、それらの約束が確かなものであることを証しています。主イエスは、天の父のもとに帰られ、今、私たちのためにとりなしておられます。それは、私たちが、天の父との親しい交わりの中に生きるためです。
私たちは、相変わらず、弱さをかかえ、迷いやすく、すぐ落ち込んでしまうような者かもしれません。しかし、主イエスはそのような私たちに、「平安があなたがたにあるように」と語りかけ、私たちが天の父の交わりの中にいかされていることを思い出させてくださるのです。
◆ヨハネの福音書14章27節
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
◆ヨハネの福音書16章33節
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
◆コロサイ人への手紙3章15節
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
Ⅲ.約束の聖霊
◆ルカの福音書24章49節
見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。
◆使徒の働き1章8節
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。
父が約束されたものとは、聖霊を指しています。この約束は使徒の働き2章で成就し、エルサレムの弟子たちの上に聖霊が注がれ、彼らは大胆な証し人へと変えられました。聖書は、聖霊ご自身が、イエス・キリストの死と復活の証しであり、救いの証印であり、将来の約束の確かな保証であると教えています。
聖霊は、私たちを変革する力を持ったお方です。弟子たちは、聖霊の満たしによって、人間の理解や経努力を超えた、劇的な変化を経験します。私たちの経験する変化はもっと静かで時間のかかるものかもしれませんが、変化を起こしてくださる方は、同じ聖霊です。変化のカギは私たちではなく、聖霊が握っておられます。しかし、聖霊は私たちを強引に支配されるお方ではありません。いつも私たちの同意を求めて、ほんとうに変革を望んでいるか問いかけておられるのです。
救われるとは、私たち自身の所有権が、私たちの手を離れ、聖霊に移されることを意味します。聖書は、クリスチャンを聖霊の宮と呼んでいますが、単に聖霊の住まいとなったことを意味するだけでなく、所有権が神のものとなったことを意味しています。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」との聖書のことばは「あなたがたの心を聖霊に支配していただきなさい。」と理解することができます。
私たちは、自分の思いやことばを、また生活や人生を、すべての関係をどれほど聖霊に支配していただきたいと願っているでしょうか。私たちが自分自身の支配権を放棄する時に、聖霊は豊かにまた自由に、働き私たちを変えてくださるのです。
◆コリント人への手紙第二3章18節
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
Ⅳ.大きな喜びと賛美
◆ルカの福音書24章52節~53節
彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
いつも宮にいて神をほめたたえていた。
弟子たちの置かれていた状況は相変わらず緊迫していました。彼らにも迫害の手が迫っていたからです。しかし、ルカの福音書は、主イエスが天に帰られたあと、弟子たちが大きな喜びに満たされ神様を賛美していたようすを記しています。私たちが、自分たち置かれている状況に目を向けるときに、さまざまなチャレンジがあると思います。また、私たちの世代は、とても不安的な時代に足を踏み入れているようにも感じます。しかし、周りの状況がどのように変化したとしても、十字架につけられた主イエスは、よみがえり、今も生きておられるのです。それが神の国の福音の変わらないメッセージです。私たちのこころに、人生に、家庭に、教会に、主イエスは生きておられます。そして、主イエスが生きておられるところに、大きな喜びと賛美が生まれるのです。