神の国に生きるⅡ

◆マタイの福音書24章1~51節
◇産みの苦しみの初め

24:1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
24:2 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
24:4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。
◇その日
24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)
24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。
24:18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
24:19 だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
24:20 ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。
24:21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
24:22 もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。
24:23 そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。
24:24 にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
24:25 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。
24:26 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。
24:27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。
24:28 死体のある所には、はげたかが集まります。
24:29 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
24:32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
24:33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
24:34 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
◇目をさましていなさい
24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
24:42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
24:43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
24:45 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。
24:46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
24:47 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
24:48 ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、
24:49 その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、
24:50 そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。
24:51 そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

はじめに

前回、「主の祈り」が神の国を待ち望む祈りであることを学びました。主の祈りは、今日、神の国に生きるための祈りであり、また、将来の神の国の完成を待ち望む祈りでもあります。聖書は、この世界をさばき、神の国を完成するためにイエス・キリストが再臨されること、また再臨に先立ってこの世界に苦難の時代が訪れることを預言しています。マタイの福音書の24章では、イエス・キリストの再臨の前触れとなるこの苦難の時代の特徴とクリスチャンがどのように生きるべきかを教えています。

1. 産みの苦しみの初め

主イエスは苦難の時代の特徴として、戦争、飢饉、地震、迫害、不法、偽預言者、偽キリストの台頭をあげていますが、これらが「産みの苦しみの初め」に過ぎないと付け加えています。「産みの苦しみの初め」とは陣痛の事ですが、この表現には二つのメッセージが含まれています。一つは、苦しみのピークにはまだ達していないという警告のメッセージであり、もう一つは、苦しみのあとに新しいいのちが生まれるという希望のメッセージです。また、主イエスは、この困難な終わりの時代の中で、教会に与えられた責任と積極的な役割についても語っています。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(24:14)御国の福音とはすべての人に開かれた恵みと救いの知らせであり、この世界に対するさばきと警告のメッセージであり、また、新しい世界の到来を告げる希望と回復のメッセージなのです。

2.その日

「産みの苦しみ」は最終的に頂点に達し、聖書は、そのクライマックスを「その日」あるいは「主の日」と呼んでいます。「その日」は苦難の日であると同時に、希望の日でもあります。なぜなら、この世界の悪をさばき、すべてを新しくするためにイエス・キリストがこの地上に戻って来られるからです。聖書は、キリストの誕生と、地上での働き、十字架の死と復活、そして再臨を預言しています。キリストが最初に来られた時は、十字架の上での犠牲の死を通して、全人類に対する救いの計画を成し遂げるためであり、この時はしもべの姿を取ってこの地上に来られました。キリストが再びこの地上に戻って来られる時は、この世界をさばくために、王の王として、すべての人の目に分かる姿で戻って来られると聖書は教えています。その時、審判者であるキリストは、罪によって壊れた混とんとしたこの世界の善悪を明らかにされます。「その日」は、キリストによって贖われた人々にとっては幸いな日となり、神に反逆する人々にとってはなげきの日となるのです。(24:45-51)

終末の時代の患難について述べた後、イエスは再臨の希望について語り、その約束が確かなものであることを強調しています。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(24:35)聖書は、時間の経過や状況の変化によって激しく揺らぐこの世界のはかない性質とは異なり、イエスのことばが何によっても揺るがされない永遠に続く信仰の土台であることを教えています。主の祈りは、イエスの再臨と神の国の完成を待ち望む祈りであると言うことができます。ここでも主イエスは、どのようなことがあっても、ご自身の再臨に希望を置き、待ち望むようにと弟子たちを励ましています。主イエスのことばは、私たちの希望がこの世界での安定や繁栄ではなく、神の国の永遠の約束にあることを思い起こさせます。

3.目をさましていなさい

主イエスは「その日」すなわちご自身の再臨を「ノアの日(時代)」、そして「どろぼう」に例えています。「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」(24:44 )この備えの呼びかけは、時を予測することではなく、日々、注意深く敬虔に生きることの大切さを強調しています。「忠実な賢いしもべ」のたとえも同じことを教えています。神は私たちに、ご自身が預けた賜物と資源を忠実に管理し、神の民の必要に目を向けて誠実に仕えていくように願っておられるのです。

4.神の国に生きる

私たちの生きているこの世界は、不安定で混とんとしています。この世界のありさまを見る時に、信ずべき善悪の基準がどこにあるのか、何が事実であり、真実なのか、人々は当惑し、あるいは簡単に惑わされてしまいます。神の国に生きる私たちにとって、永遠に変わらない神のことばこそ真理であり、すべての善悪の基準です。私たちは、神の国と暗闇の世界とがせめぎ合っている「今」と、神の国が完成する「将来」との間に生きています。神の国は、すでに来ており、今ここにあり、しかしまだ完成していないのです。聖書は、キリストご自身がそうであったように、神の国に生きるクリスチャンが、この世界にとっては異質な存在であると教えています。歴史は、神の国とこの世界との境界線上に常に緊張と衝突、また戦いがあったことを示しています。この世にとっての戦いとは力によって勢力をひろげ、他国を制圧し、あるいは排除し滅ぼすことを意味します。一方で、クリスチャンにとっての戦いは、隣人のために祈り、キリストを証しし、愛を示し、仕え、福音を伝え、聖霊の力によって神の国が広がることを意味します。福音とは、イエス・キリストを通して与えられる救いへの招きです。この福音は、救いの道がすべての人に開かれており、ただキリストを信じ受け入れることによって、無条件に罪が赦され、神の子どもとされ、神の国に生きる特権が与えられるという良い知らせなのです。

むすび

私たちは、この世界に決して揺るがないものを見つけることはできません。私たちの生きているこの時代は、文化も政治も経済も価値観も大きく揺らいでいます。人々は戸惑い、恐れ、すべてが不確かに見えます。気づいていても、気づいていなくても、人々は心の底に不安を抱えて生きています。どんなに知識と力、繫栄を手に入れたとしても、神から離れた人間は自分のたましいを満足させ安心させることができないのです。これは、人間が創造主である神から離れた時からえてきた根本的な問題です。すべてがやがて色あせてしまうこの世界で、主イエスは変わることのない約束のことばを私たちに与えてくださいました。私たちは主イエスのことばに希望を見出します。だれでもイエス・キリストを通して、今、そして永遠に、揺り動かされることのない神の国に生きることができるという希望です。

◆ヘブル人への手紙12章22~29節
12:22 しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
12:23 また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、
12:24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
12:25 語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。
12:26 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」
12:27 この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。
12:28 こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。
12:29 私たちの神は焼き尽くす火です。