聖書の教理と素朴な信仰

少なくとも使徒信条やニカイア信条などで告白されているクリスチャンの信仰の土台となる教義に関しては、福音的な教会の間で(なんとか・・・)一致を見ることができると思います。しかし、二次的、三次的な教理や聖書の特定の個所の解釈、教会のあり方に関わる意見、伝統やカルチャーに関しては、クリスチャン個人やグループによってその立つところが異なってきます。たとえば代表的な例として、神の主権と人間の自由意思に関する理解、聖霊の働きに関する理解、終末に関する理解などは、教会や個人の置かれた神学的な背景によって解釈の色合いがずいぶんと違ってきます。また、最近では性や結婚の定義に関しては、その意見の違いをめぐって大きな教団が分裂するなど、大きく意見の分かれる所です。

このような信仰理解の違いは、歴史を通して、教会が一致を求めていくうえで常に大きなチャレンジとなって横たわっていたことで、決して新しいことではありません。難しいのは多様な理解の違いとして受け入れられる部分と妥協できない部分が個人やグループによって異なる点にあります。また、そこに政治的、社会的、文化的な影響が加わると問題をより難しくします。しかし、一方で聖書は、どんなに混乱や、不一致、あるいは争いがあったとしても、神の目から見た教会が一つであると教えています。これは、裏返して言うならば、教理や伝統を単に掲げているだけでは、本当のクリスチャン(教会)であることの保証とはならないということにつながります。

信仰によってキリストと生きた関係を持っていることと、正しい教理や正当な伝統を持っていることとは別の次元の話のように感じます。ちょうど一度も会話したことがない人の正確な情報を調査会社の職員が調べて知っていることと、幼い子供が自分の父親を、たとえ職業や経歴を説明できなくても、自分を愛し守ってくれる存在として知っていることと、その知り方の違いに例えることができます。私たちと天の父とをつなぐものは、イエス・キリストを通して与えられる創造主である天の父との人格的な関係だからです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」、「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」と、主イエスが語られたことばは救いによって与えられる天の父との人格的な関係を指しています。

教理を学ぶことは大切ですが、それよりも大切なものが素朴な信仰によって与えられる天の父とのいのちの通う対話であり関係です。とはいえ、自分たち(の教会、グループ)の立ち位置を確認する上で、またお互いの違いを理解する上で、ある程度神学(教理)を学ぶことは有益だと思います。また歴史の中で、神と真摯に向き合ってきた尊敬すべき多くの神学者たちの探求によって、聖書や信仰の理解が深められてきたことは言うまでもありません。